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札幌民の憩いの場「大通公園」の歴史

投稿日|2022年8月3日 (更新日:2023年11月8日)

札幌市民の憩いの場として知られる大通公園。四季折々の自然を楽しめる華やかな公園には、どのような歴史が刻まれているのでしょうか?

1.厳密には公園ではなく道路?

 札幌市内にある公園の中で最も知名度が高く、老若男女を問わず親しまれている大通公園。園内には、札幌市のシンボルツリーである「ライラック」が400株ほど植栽されており、花壇には四季折々の美しい花がずらりと並びます。大通公園の周辺には数多くのビルが建ち並んでいることから ”オフィス街のオアシス” としても利用されています。
 もともと大通公園は「後志通(しりべしどおり)」という名称でした。「後志通」という名前からも分かるように、大通公園はもともと ”道路” として開拓された土地でした。道路敷地の上に公園が造られているため、大通公園は厳密には公園ではなく道路の一部なのです。しかし大通公園は、昭和61年に「日本の道100選」、平成元年に「日本の都市公園100選」に選定されています。そのため、 ”道路でもあり公園でもある” という認識が正しいのかもしれません。

〈明治8年の大通周辺地図〉
明治時代の大通周辺

 大通公園の両脇にはそれぞれ大きな道路が走っています。道路沿いには隙間なく建物が並んでいますが、大通公園を挟んで北側・南側の建物にはそれぞれ特色があることをご存知でしょうか。北側の「北一条通り」は、裁判所・合同庁舎・国税局など、政治行政の中心となる官公庁が多く並んでいます。一方、南側の「南一条通り」は、三越・丸井今井などのデパートや商業ビルが多く並んでいます。この特色は開拓当初から引き継がれているものであるため、”大通公園は役人と民間人の居住場所を区切るために作られた道路なのではないか?” と考えられています。

2.開拓当時の様子

 明治初期の開拓当初、札幌市内では草小屋や刈り取った草類が自然発火する火災が多く発生していました。そのため大通公園は、人々や街並みを火災から守る ”火防線” として主に利用されていました。
 当時の開拓官僚であった岩村通俊は、頻発する火災を防ぐために大胆な政策を行いました。まず、草小屋に住む市民に家を建築するよう命じて資金を貸し付けます。そして、この命令に従わなかった市民の草小屋は、岩村を始めとする官僚たちが一軒ずつ火を放って焼き払ったのです。この政策を「御用火事(ごようかじ)」と呼びます。手荒い政策ではありましたが、この御用火事によって札幌市内の火災は大幅に減少しました。

〈岩村通俊〉
岩村通俊

 明治9年頃、西3~4丁目に初めて花壇が設置されます。花壇が設置された目的は、西洋から輸入した草花の植栽テストを行うためでした。市民の観賞用に植栽されたわけではありませんでしたが、このときに初めて、現代のような憩いの場として市民に親しまれる場所となりました。この当時の西3~4丁目は「大通花草園(おおどおりかそうえん)」と呼ばれていました。この「大通花草園」が、現在の「大通」という地名の原点となっています。

〈開拓途中の大通公園〉
開拓途中の大通公園

3.公園整備に貢献した人々

 明治40年、小川二郎という民間人が西2~4丁目に自費で花壇を設置します。小川は札幌農学校(現在の北海道大学)を卒業し、札幌市内で種苗店を営んでいました。小川が自費で花壇を設置した理由は、札幌への地域貢献のためか、はたまた種苗販売の宣伝のためか、記録が残っていないため定かではありません。しかし、小川の花壇設置をきっかけとして公園内の整備が本格化していったため、大通公園の発展に一役を買った人物であることは間違いありません。小川は、かつて札幌を代表するデパートであった「五番館(現在は閉店)」の創業者としても知られています。
 明治41年、西9~10丁目を「逍遥地(しょうようち:人々が自由に散策できる場所)」にするための整備が行われました。その後、大通公園全体を本格的に整備するために、長岡安平(ながおかやすへい)が東京から招かれます。長岡は ”日本人初の公園デザイナー” として数々の名園を生み出し、当時の東京で活躍していた造園技師でした。長岡は3年の月日をかけて造成を行い、現在の大通公園の原型を造り上げました。長岡は、大通公園と同時に中島公園・円山公園の造成にも携わり、公園造りを通して札幌開拓に大きく貢献しました。

4.戦争により荒廃した過去

 昭和に入ると、第二次世界大戦や太平洋戦争が勃発します。戦争が長期化したことにより日本全国で危機的な食糧不足が発生し、広大な土地を有する北海道でも食糧危機が問題となっていました。札幌市民の食糧不足を補うため、華やかであった大通公園はイモ畑へと姿を変えます。花壇や芝生は跡形もなく無くなり、公園内に設置されていた銅像は金属供出のため日本軍に持っていかれました。ゴミ捨て場や雪捨て場としても利用されるようになり、戦争によって大通公園は見る影もない姿へ変貌しました。
 戦後、大通公園は駐留軍の支配下に置かれます。駐留軍は公園内に野球場やテニスコートを次々と造っていきました。駐留軍の司令部が置かれた西3丁目には教会も建てられました。大通公園は、駐留軍の兵士たちの憩いの場としても利用されていた過去も持っているのです。
 昭和25年、駐留軍が真駒内キャンプクロフォードへ移転したことをきっかけに、大通公園が札幌区に返還されます。戦争によって変わり果ててしまった大通公園を復興するため、北海タイムス社(現在の北海道新聞社)が復興に精を出します。北海タイムス社は、北大植物園や園芸店の助言や協力を得て、西3丁目の花壇を復活させることに成功します。この出来事をきっかけに、昭和27年には計15社の園芸店がボランティアとして次々と花壇を復活させていきました。戦後の貧しい時代ではありましたが、北海タイムス社や札幌市内の園芸店によるボランティアのおかげで、大通公園は少しずつ華やかさを取り戻していきました。

5.現在の大通公園

 昭和32年、西1丁目に「さっぽろテレビ塔」(高さ147.2m)が建設されます。さっぽろテレビ塔は、大通公園並びに札幌市のランドマークとして、現代でも多くの市民から愛される存在です。開業翌年には、当時の皇太子殿下であった今上天皇がご来塔しています。
 平成元年、「大通公園リフレッシュ事業」と称した公園全体の再整備が開始します。この事業は6年の月日をかけて進められ、園路や広場のデザイン化・バリアフリー化が行われました。平成6年に再整備が完了し、大通公園は現在の姿に落ち着きます。明治末期に始まった大通公園の本格的な整備は、平成23年に100周年を迎えました。

〈現在の大通公園〉
現在の大通公園

 大通公園は現在、「さっぽろ雪まつり」「YOSAKOIソーラン祭り」「さっぽろオータムフェスト」といったイベント会場としても活用されています。毎年4月下旬~10月上旬には、「とうきびワゴン」と呼ばれる屋台が公園内に設置されます。”とうきび” は北海道弁であり、 ”とうもろこし” を意味します。明治時代にはすでに札幌市内の街角でとうきびが売られており、これが現在の「とうきびワゴン」のルーツであるといわれています。
 2022年現在、大通公園を創成川を超えた東1丁目まで延伸する案が検討されています。創成川から東側のエリアは ”創成川イースト”と呼ばれ、近年の再開発によって札幌の新たな注目スポットになりつつあります。創成川イーストへの延伸によって、大通公園はより一層近代的で賑わいのある公園になるのではないでしょうか。大規模な再開発計画によって札幌中心部に高層ビルの建設が相次いでいる今、大通公園の再開発にも期待が膨らみます。

 

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